memorandum

試考錯誤

これはあなたのためのものではありません。

今回展示してみて面白かったのは

「分からなかったんだけど?」という人を冷静に分析できたこと。

文句げにとか、むしろ勝ち誇ったみたいに言うひとがけっこういたけど。

個人的には「ご縁がありませんでした」「あなたのための作品ではなかったってことです」としか言いようがない。

よく誰にでもわかる必要はないという理解者の基準に学歴や教養(歴史や文脈理解)を持ってくる人がいてそれは私は好きな考えではないけど、しかし誰にでもわかる…は無理である。

むしろ私は「理解できるかできないかが大切で、出来ないものには興味がない」という人間には見てもらわなくていいと思ってる。そうした時けっしてそういう見方ができる基準には学歴や資産は関係がないのである。存外自分は上等な人間だと思い込んでる人間の思考停止は早い。

アートのコミュニティに擦り寄る人の中には自分は教養(私からするとそれは教養ではない)がある資産があると思い込んでいて、それを若い人…特に女の人に誉めそやして欲しくて仕方ない残念な人も多い。そういう人ほど分からないものへの拒否反応や怯えが強くなる。文句げにもしくはマウンティグぎみに「分からない」と言ってしまう人間は怯えているのだ。そして分からなかったのはあなたのせいでなくて私の画力がどうこうとか分かりやすく尤もらしいしょうもないことを言って欲しいんでしょうね。赤ん坊があやされたいみたいに。

 

できればそういう人には私の作品は見て欲しくないし寄ってきて欲しくない。

そういう意味で、語気強めに発される「分からないんだけど?」という発言は私からすれば試験紙である。

あなたのためのものではありませんでした。お引取りください。

昼から飲むビールとか

この日を忘れたくない。

壁に簡単に貼られた草枕の一文とか。

ずっと自分が不安だったところがいかに簡単な一言で報われてしまうのかとか。

スタートラインの重みとか。

ずっとずっと呪われてることとか。

そういう日常では交わせない言葉の面白さとか。

昼から飲むビールのありがたみとか。

私はどうなりたいか分からなくても、それが楽しいし嬉しい。人生は思いの外素朴なものだと思う。

 

 

年がはじまってみて

前の投稿で、抱負とかどうせ忘れるし。

とか言っていて、それはまぁ余り間違ってないというか。気合い入れると叶いそうにもないお祈りみたいなことを言いすぎるとはいえ、数日この2019年を過ごして見てボンヤリとこうなればいいなーと思ったこと。

生活用のスケジュール開いて見てみると、真っ白で仕事始まり仕事終わりと、仕事のイレギュラーな用事以外書いてなくて(仕事内容用のスケジュールを一応別に作ってる)非常にもったいないことになっていた。これは何も始めたりせず決まった仕事をぼーっと流していた証拠だった。

なのでこの年はもう少し楽しみな予定をたくさん作れるようにしたいなと考えている。

小旅行とか、大人数で会う会とか。自分で仕切るのが苦手なのだけど、あまりに味気ない生活手帳が寂しすぎた。

 

あけましておめでとうございます

みんな新年の抱負とかについて話してるけど特にないです。

毎年たぶん決めてたけどもう年末には忘れてるので今年はもう茶番はやめます。

とりあえず楽しく生きたいかなーくらいです。

 

寝正月にしたいのですが、制作に追われてます。作業用BGMにアニメ見てます。

たえれてしまうしまう、景色の軽さ。

一年を振り返るとともに制作中の新作のための文章。


もともと私は風景画に属するであろう作品をよく制作してきた。正確には記憶に残る景色や、予感や希望を基にした今はまだない景色を描いてきた。
しかしながら今年一年で私の景色に対する感覚が変わり始めた。理由は今年の漢字一文字にも選ばれた「災」…関西を襲った豪雨、地震、台風。 そして大阪の万博招致が決定すると共に連日主要な公共施設の改装予定案がニュースとなったこと。
これらから今まで以上に強く「風景は簡単に壊れる」ということを意識したのだ。
もちろん、今までから記憶や理想…自らの中にある景色を基に描くということも絶えず変化する景色を相手に描くことだった。しかしあくまでそれは自分のコントロール出来る範囲内のことである(だからこそ自問自答を繰り返す必要があり、困難でもあった。)。
また、実在の風景も絶えず変化することがわからなかったわけではない。当たり前だが草木などの植物は自然のサイクルで姿形を変えるものであり、アスファルトや鉄筋など人が生み出した強固な素材ですら常に朽ちて破滅に向かっている。しかしそれも私たちと何も変わらない時の流れに沿ったものである。予想できる変化なら常に風景を描く上で当たり前のことだ。
だが、我々の力のまったく及ばない大きな自然災害、意思疎通のできない大きな力。それらによって奪われる風景というものを身に迫って感じた。我々がどんなに思い入れようが、どんな未来を望もうが風景は簡単に壊れてしまうものなのだ。

また、その事実と直面した時に感じたことは己の中での風景への無関心さだった。台風21号により幼い時から育った家の一部も破壊されたが、その時そこにあったはずの記憶や思い出について考えることよりも、日々の日常に追われ処理することが何よりも気がかりとなり、処理した後もまるで昔からそうであったように当たり前に日々は続くことは私にとっては衝撃的で悲しいことだった。
生きるためなのかもしれないし、それが当たり前なのかもしれないが私は思った以上に鈍感で、風景というものは二重の意味で簡単に喪われるのだと思えた。
その事実に私はもう風景を描く必要すらないような気さえしてしまったのだ。

『たえれてしまう、景色の軽さ』という言葉には、本当に景色は軽いのか?
壊れてしまったら終わりなのか?
また、本当に忘れてしまいなかったことにすることに我々は耐えれているのか?麻痺してしまうことでなくすものは何なのか?
という疑問をこめた。

 

常に隣り合わせの災害、常に誰かの思惑が街を形づくること。繰り返されてきた破壊と再建。それを我がこととして痛感できた一年だったように思う。

 

「来る。」

冬のホラー映画祭!第3弾!

キャスト・監督共に豪華。

楽しみで、公開日初日に見てきました。

普通に私は好きだったけど、ホラー映画好きが喜ぶかは微妙?というなかなか日本の実写ホラーでは斬新な映画でした。

以下、原作含めたがっつりとネタバレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

端的にこのホラー映画をジャンルわけするなら、前半サイコホラー・後半オカルト特撮。

原作「ぼぎわんが、来る。」も読んだが、かなり脚色されており、原作も人の弱さを描いているが、映画では中島監督らしくより毒々しくいやらしく人を描いている。

あと、原作ではなかったかなり派手で大規模なお祓いシーンがとてもかっこいい。「オカルト版巨災対」「霊能者大戦」「心霊地球防衛隊」などなど、観客がキャッチコピーをつけたくなるような日本の実写ホラー映画では恐らくかつてない規模のパワー除霊がビジュアル化されていた。

原作ではシリーズのヒロインである小松菜奈演じるキャバ嬢霊媒師・真琴とその姉、松たか子演じる日本一の霊媒師・琴子のキャラクターもとてもよく、オカルト巨災対と合わせて余りホラーは見ないアニメヲタクにこそ見て欲しいホラー映画になったと思う。

原作でもあるけど、ファブリーズ除霊とか、タバコで除霊したりもとても面白かったし。映画オリジナルの全国からかき集められた霊能者…とくに宮司が向かう新幹線で何かを察知して別々の駅で降りて「誰か一人でもたどり着いたら上出来や」とか言うシーンは痺れたし、カプセルホテルで宮司の正装に着替える描写も良すぎた。

この辺りの画…ビジュアルの強さがすでにもともとアニメヲタクの私は大好きなので、映画館で見て本当によかった。

さすが、キャッチコピー通りエンタメとして最高。

 

しかし、ホラー映画としてどうなのか?

 

まず、とても私が評価してるのは映画での「ぼぎわん」の描写について。原作では“髪が長い身体は灰色の口のみのお化け”が本体として“ぼぎわん”は描かれるが、映画ではひたすらに狙う相手の知り合いの姿や声を借りており、最後琴子が闘ったのも破壊の痕跡(血液やひび割れ、風圧)でしかなかった。化身というのか予感として…アイコンとして青虫が登場するが決してそれは本体ではない(私は青虫が苦手なのもあるけど、そういうアイコンみたいなものもない方がよかった気さえする)。

それによって①ジャパニーズホラーにおいてリングからの流れをひたすらに引きずって使い古された髪の長い女の幽霊とは一線を画して、内容も相まってリング以前の日本では、恐怖の対象としてよりポピュラーだったはずの“水子”“祟り神”の性格を強く持った。

②原作は「人に"恐怖"を与えるのは対象それ自体の姿形や性格ではなく“人々に恐れられている”ということ自体ではないかと仮説を立てたつまり、おばけの由来や実害そのものよりも、名前とそれが“怖いという触れ込み”が不気味さと恐怖を掻き立てる」(資料参照)と考えられ書かれているが、よりその本質を映画のぼぎわんは上手く表現出来てるのではないか。

という二点でとてもホラー映画として評価できるものと考える。

わざわざリーフレットでぼぎわん伏字にしてる割にあっさりぼぎわんの名前を明かすのも、別にもったいぶりたいっていうより“ぼぎわん”という言葉がお化け程度の幅広い言葉であることと、作者の考察を思うと“あれ”程度が的確ってこと…かな?と思える…ここまでは原作の読まないと分からないが。

映画見て、ちょっと「もやった」人は是非原作読んでください。原作のコンセプト?(みんなが怖がってる事実こそが怖い)としては怪しいけど、がっつりぼぎわんの正体が描かれる心霊ミステリーな原作なので。

 

ただ、以上の理由でジャパニーズホラー映画の改革の布石になってくれたらいいとは思うものの、実際の怖がらせるネタはホラー映画好きなら慣れてしまった“あるある”ものなので、余り怖くはないのが残念。

私は原作でも描写され、映画では夢や記憶として描かれた、ガラスの向こうになんとなく何かいる…という気配を表す蠢く灰色の何かをもっと上手く使えればよりよかったと思う。本体として灰色の気持ち悪いモンスターを創造するとか、赤い方の女の子というアイコンを使う以上にそれを上手く使えば、じんわりと怖がらせてくれるホラー映画の傑作になった気がする。素人考えだけど。

 

ホラー映画好き全員に評価されるかはさておき、低迷してるジャパニーズホラーの起爆剤になれる要素がふんだんにあり、エンタメとしては最高にかっこよく面白いいい映画と思う。

 

資料・作者インタビュー「https://store.kadokawa.co.jp/shop/pages/interview_004.aspx

 

 

「ヘレディタリー/継承」

冬のホラー映画祭!第2弾

 

もうすぐ終わる今年ですが…今年に見た中では最恐・最狂といえる作品です。

つまり1番怖かった。

わかったわかった。怖いから!もういいから!と何度も上映中帰りたくなりました。

私がホラー映画を映画館ではあまり見てこなかったのもあるのかもですが、集中力がとても持たない、帰りたくなるホラー映画でした。

 

以下少しだけネタバレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多くの方が言ってる通り、ホラー映画の怖がらせ要素の見本市のようなホラー映画です。

よく言えば、誰かの苦手も絶対に含まれている故に、「そう言う系は平気なんだよねー」を許さないスタイル。

悪く言えば、もう出尽くしてるネタを並べてるわけです。しかし、既視感があっても少しずつ何だか違ってて怖いので、どう次展開されるか分からずにとても怖い。

クオリティがとても高く、全画面行き届いてる故に、よくある怖さでも慣れを許さない。

ずーっと何かが起きかねない効果音が続きます。強弱つけるみたいなことを知らないのかな?ずっと最恐出力をこちらに予感させます。なので中盤にはヘトヘトでした。

とりあえず怖いのは怖くて、こんな怖いの?って思える映画でしたが、その理由は各種取り揃えられてることと、自分があまり映画館で見慣れてないからかな?程度に思ってましたが。

もっと細かい細工?が盛りだくさんらしいので是非見てみて欲しいです。

今年の冬見た中で最もホラー映画好きこそ見るべきホラー映画でした。

個人的に好感度高かったのが、本作は実は欧米ホラー映画にありがちな悪魔ホラーで、黒魔術ホラーなのですが、そこがわざとらしくなく記号で理解させるような描き方が少なかったのがよかったです。黒いベールや三角帽子かぶったキャラクターが出てきた時点で終わってました。

 

追記…個人的にラストのシーンが余分に思えたのですが、皆さんはどう思われるでしょう。兄が妹(実は昔から悪魔に取り憑かれていた模様)のクセを真似て、身体が乗っ取られたことが伝わった時点でエンドでよかったと思ってます。