memorandum

試考錯誤

たえれてしまうしまう、景色の軽さ。

一年を振り返るとともに制作中の新作のための文章。


もともと私は風景画に属するであろう作品をよく制作してきた。正確には記憶に残る景色や、予感や希望を基にした今はまだない景色を描いてきた。
しかしながら今年一年で私の景色に対する感覚が変わり始めた。理由は今年の漢字一文字にも選ばれた「災」…関西を襲った豪雨、地震、台風。 そして大阪の万博招致が決定すると共に連日主要な公共施設の改装予定案がニュースとなったこと。
これらから今まで以上に強く「風景は簡単に壊れる」ということを意識したのだ。
もちろん、今までから記憶や理想…自らの中にある景色を基に描くということも絶えず変化する景色を相手に描くことだった。しかしあくまでそれは自分のコントロール出来る範囲内のことである(だからこそ自問自答を繰り返す必要があり、困難でもあった。)。
また、実在の風景も絶えず変化することがわからなかったわけではない。当たり前だが草木などの植物は自然のサイクルで姿形を変えるものであり、アスファルトや鉄筋など人が生み出した強固な素材ですら常に朽ちて破滅に向かっている。しかしそれも私たちと何も変わらない時の流れに沿ったものである。予想できる変化なら常に風景を描く上で当たり前のことだ。
だが、我々の力のまったく及ばない大きな自然災害、意思疎通のできない大きな力。それらによって奪われる風景というものを身に迫って感じた。我々がどんなに思い入れようが、どんな未来を望もうが風景は簡単に壊れてしまうものなのだ。

また、その事実と直面した時に感じたことは己の中での風景への無関心さだった。台風21号により幼い時から育った家の一部も破壊されたが、その時そこにあったはずの記憶や思い出について考えることよりも、日々の日常に追われ処理することが何よりも気がかりとなり、処理した後もまるで昔からそうであったように当たり前に日々は続くことは私にとっては衝撃的で悲しいことだった。
生きるためなのかもしれないし、それが当たり前なのかもしれないが私は思った以上に鈍感で、風景というものは二重の意味で簡単に喪われるのだと思えた。
その事実に私はもう風景を描く必要すらないような気さえしてしまったのだ。

『たえれてしまう、景色の軽さ』という言葉には、本当に景色は軽いのか?
壊れてしまったら終わりなのか?
また、本当に忘れてしまいなかったことにすることに我々は耐えれているのか?麻痺してしまうことでなくすものは何なのか?
という疑問をこめた。

 

常に隣り合わせの災害、常に誰かの思惑が街を形づくること。繰り返されてきた破壊と再建。それを我がこととして痛感できた一年だったように思う。