「サイレントプレイス」
冬のホラー映画祭!第一弾
この冬はホラー映画豊作だ。出来るだけ映画館でみてやる!という気合の元、深夜の繁華街でレイトショーに駆け込みました。
そのジャンルを応援するならお金落とさないとね。
私は何を隠そう字幕映画を見ると寝る病なのですが、この映画はたぶん吹替ようが字幕だろうが関係ないです。
みんなほとんど喋らず手話の映画。
だからこそ、映画館の音響で見て意味のある映画に思えます。
普段ノートパソコンで映画のDVDとか見てますが、たぶんそれだと伝わらない臨場感がありました。
以下ネタバレ。
ざっくりと言うとクリーチャー系、宇宙モンスター襲来ディストピア・パニック系ホラーでした。
本音言うとあまり好きでないタイプのホラーです。
そして家族の絆などを描いてました。
後ほど投稿しますが今年のこの冬に見た残りのホラー映画すべてが「家族について」をいろんな角度から見た映画になってますが、その中で唯一肯定的に家族を描いてました。そこ含めてやはり苦手な映画かも。
恐怖…死と家族…産み育て繋ぐ生産的な活動についてはかなり関わり深いからこそこの冬のホラー映画は家族がテーマと言えなくないものが多いのかしら。と思いつつも。
あと、これも他の見たホラー映画と比べ唯一と言っていいのかな?恐怖に打ち勝った物語でした。
女の人強い!ってラストはかっこよかったですが、やはり私はあまり好きではないかな。今まで学者とかも不快な音が効くかもってことに気づかなかったことへの違和感…。
あまり好きでなさそうに書いてますが、音を立ててはいけない怖さを描くのとてもうまかったです。
自分の口を途中から手で押さえてる自分がいて、術中にはまってるなと思わされました。
青空が広がる表紙の物語
私は夏が好きではない。もちろん暑いこともあるけど、夏の「楽しまないという損」みたいな強迫観念が滲みでてるところとか、もっというと生命力が溢れてる空気が嫌い。
この夏は「平成最後の夏」というワードを飽き飽きするほどよく見かけて、決まって特別なものにしたいという気持ちや夏を惜しむ感情が夏を美化している。例年以上に地獄のように気持ち悪い夏だ。
別に、人生を物語化することを非難してるわけではない。
自分を本にするために湖畔に集うSF小説は嫌いになれないし、人は皆何かの映画の主人公や小説の主人公と思って生きるべきである。という誰かの言葉に共感しさえする。
しかし、むしろ夏という季節はその選んで主人公になれる物語が極端に減るように思う。
美しい青空、田舎、絆、冒険、成長、青春そんな物語に全てが飲み込まれてしまう。
私は日本のアニメーション映画が決まってメインビジュアルに白々しい青空をもってくるのが死ぬほど嫌いなのだ。
秋は良い。そんな希望いっぱいの物語なんて忘れて、寂しくても悲しくても物語の主人公になれるのだ。
そういう人にこそ物語は必要なのではないか。そんなことを思う夏だった。
お母さんという虚像と現代的ファンタジー
最近はジェンダレスファッションが流行していたし男の娘ブームもあり男性による女装というものはさほど珍しくなくなってきた。
女装について思うのは女装が好きでない男の雑い女装ってミソジニー(女性嫌悪)が表出して思えるからちょっとムカつくなって気持ちと、いかにも似合ってない雑い女装をしてるからこそ滲み出る男らしさはそれはそれで倒錯的な色気があるなってどうでもいい感想。
とりあえず女装するからには歴史的にそれを装ってきて今もだいたい装ってる女性たちに敬意を少しでも払って欲しくなるし、出来ればそこから少しでもジェンダー(社会的・文化的性差)とかセクシュアルについて考えてほしい気がしてしまうことなんだけど。
そんなことを書き残したいのでなく自分の新しい性癖というか嗜好に気づいてしまった気がした衝撃で書いてます。
その性癖・嗜好とは…
…昭和の主婦装男性です。
星野源のおげんさん(わかりやすくいうとほぼサザエさん)がすごい好きで、可愛くて明るくて優しくてこんな家族がほしい…ってのはよく思ってたけど。ただおげんさんが好きなんだと思ってた。
でも、ファミマのお母さん食堂のイメージキャラクターである慎吾母も良すぎてちょっとこれはダメなやつかも?となってしまった。
断っておくとそれまで星野源も香取慎吾もそんなに好きな芸能人ではない。決して好きな男性芸能人が女装してみたら可愛かったから喜んでるわけではない。
星野源はいまは結構好きだけど、プロなんだし当たり前な気もするけど素人目にもすごい音楽への造詣の深さや、反して決して上から物を言うのでなくとても素朴なもの言い、ラジオで見せる公平で想像力豊かなものの見方とか。下ネタを上手く扱える人に悪い人はいない。
それにしても上記のようにジェンダー云々言ってることからも分かるように女装の流行がジェンダレスに繋がるならいいけど女装って下手したらミソジニーを助長するのでは?とか、すこし冷めて一歩引いておきたい気持ちだったのにも関わらず。おげんさんと慎吾母に対しては小難しいことは置いておいてとりあえずいいみたいな、思考停止の好感度である。
え?私の性癖気持ち悪すぎない?
ふと、べつに昭和主婦装なら女でもいいのでは?と思ったけどそれは全然ちがう事実と、実際お母さん食堂のキャラクターの定食屋さん?実家の母?に男性を起用したか考えたら、ちょっと複雑な感じもするけど。
たとえば私が地味な長いスカートにエプロンという出で立ちとか着物に割烹着とか自分がしたいかというとしたくないし、他の女性が好きでしてるなら何も言っちゃいけないんだけれども今時したいか?それもし周囲の男が喜んだら嬉しいの?複雑ちゃう?って気持ちだったりする(主婦的な役割を表す装いや振る舞いが女性にしか結びつかず性差別に繋がらない時代が来たらそんなことは思わなくて済むだろうが)。
だからあくまで装いと役割が性差の文脈から剥がれてるから成り立つファンタジーなのだと思う。役者と役割が反転してるからこそ見えてくるその役割の良さ。必要性にこそ、現代的な癒しがあるのではないか。
ともあれそんないろんな理屈を無意識下に追いやって
言語障害的な感想(しんどいとか、尊いとか)をもたらすからこその性癖…フェチである。
(余談、慎吾ママから18年ですって。おどろき。オハーでマヨチュチュ的な曲なつかしいですね。慎吾母にもテーマソングないんですかね?)
もう1つの世界ではまた会いましょう
地元の、あまり行かない地域に行ってみた。
特に何もなく歩いて帰ろうとしたときに花屋で客と話してる店員の男が目に付いた。
とても昔から知ってる気がして、目を逸らせなかった。私が通りすがる間、すごく早くから気づいて向こうも客と話しながら私の顔を見てた。
いつどこでの知り合いが全くわからない。でもものすごくよく知ってた頃があった気がした。
なんてことなく、もしかしたら失念してる知り合いかもしれないんだが、私は思う。
前世での知り合いとか、もしかしたら並行してる他の現在では知り合いなのかもしれないと。
夢見がちがすぎるのだが、それにしても知ってる顔すぎるし、考えても接点がなさすぎる。あとで何となく少し悪いと思いつつその花屋について調べて名前までわかったが何の接点もない。
こんなこともあるんだな。と。少し不思議な気持ちになった。
蓄積すべき傷という記憶
傷を認識できること、覚えておけることは才能かもしれない。
自分のネイルが剥がれてることを悲しく思えること
昨日喜んだ花の開花ののち、今日その花が散ったことに気づけること。
なぜ、いつ青タンを作って治ったのか。
そんなこと思い出せない。
簡単に乗り越えた気になって忘れることは大人の才能。
でも地を踏みしめてる脚が年々弱々しくなるのは身体の衰えだけだろうか?
今年は災害のあたり(といっていいのかハズレだと思うけど)年である。
当たり前だった、物たちや風景が一夜で変わってしまう。
しかしそれを本当の意味で認識する間もなく今日今日今日と生活を営まないとならないために、覆い隠し塗り固める。
何かを喪うというときは喪失感が伴わないときの方が、実は重大なものを損なってしまうのではないかと、ふと思った。
気付いた時に地面がないことになるような損失を、我々は認識できているだろうか。
(台風21号直後メモ書きしてたものに加筆しました。)